ミャンマーのはなし

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「ビルマの独裁者」タンシュエの処世術が凄い

 2006年6月。ある軍人の娘が、ミャンマーで盛大な結婚式を挙げました。

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集まった祝い品の総額は5000万ドル。動画の低評価率とコメント欄の罵詈雑言がちょっと怖いですが、彼女の父親は、1992年から2011年までミャンマーの政治、軍事を完全に掌握することで独裁的な地位についていた、タンシュエ(Than Shwe)という人物です。

 

 

謎に満ちた人物

 

 まず始めに。タンシュエは、長きにわたってミャンマーを支配した、いわば独裁者のような人物ですが、その生い立ち、性格、発言などに関する資料は、意外なことに、ほとんど残っていません。唯一の専門的な書籍ともいえるのが、こちらの本。 

ビルマの独裁者 タンシュエ ─ 知られざる軍事政権の全貌

ビルマの独裁者 タンシュエ ─ 知られざる軍事政権の全貌

 

今回は、こちらの「ビルマの独裁者 タンシュエ」をベースに話を進めて行こうかと思うのですが、面白いので皆さんもぜひ購入して、読んでみてください。ここには書けないような眉唾ものの話や、恐ろしい話、流石にちょっと笑ってしまうような話など、タンシュエに関する、ありとあらゆる情報が様々載せられていまして、よくここまで調べたなと驚いてしまいます。

 

目立たず騒がずの処世術

 

 タンシュエは軍人ですが、実務経験はほとんどないと言われています。あったとしても、あまり良い功績は残せておらず、部下から尊敬されるようなリーダー型の軍人ではありませんでした。また、本人も優秀な軍人は気に入らなかったようで、自分についてくる従順な部下を大切にしていました。

 

 それでも彼が順調に出世していった理由としては、党の様々な会合に欠かさず出席していた事、中央政治学院で教鞭をとっていたので、ビルマ社会主義の中身をよく理解していた事などを挙げることが出来ます。先の書籍の中でも、

彼がライバルを退けて最高権力者になれた理由は、彼が周囲の人物から「脅威として受け止められていなかったから」である。 

と評されていますから、その点は実にしたたかであると言えます。真面目。

 

運にも恵まれる

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 脅威として受け止められていなかったタンシュエの立ち回りが、思わぬところで幸運を呼びます。数十人の国軍士官が関わったクーデター計画に参加しなかったどころか、声すらかからなかったのです。悲しい。首謀者の1人であったマウンマウンは直属の上司でした。それでも誘われず。いかに蚊帳の外であったかが分かります。

 

 結局クーデターは未遂に終わり、多くの軍幹部が辞任、更迭。タンシュエは繰り上げでスピード出世を果たしたというわけなのです。

 

現在は……

 

 このように、国家元首への階段をじわりじわりと上がっていったタンシュエですが、現在は完全な隠遁生活に入っているようです。メディア嫌いのタンシュエは、回顧録等も書いておらず、フセインムガベといった他の独裁者と比べても、未だ謎に包まれた部分の多い人物であると言えます。

 

 国内外の研究者らの手によって、タンシュエというミャンマー近代史における重要人物の評価が、今後様々な視点から行われていくと良いですね。

「ビルマ建国の父」アウンサン将軍は誰に殺されたのか

 ミャンマーの近代史を語るうえで欠かせない、最重要人物のアウンサン将軍は、ノーベル平和賞を受賞したアウンサンスーチー氏の父親でもあります。彼の命日は、1947年の4月19日。ある人物の暗殺によって、激動の生涯を終えてしまったのです。

 

その「ある人物」こそが……

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植民地下のビルマで首相も務めていた、政治家のウーソオ(U Saw)です。

 

 

経営者 × 政治家

 1900年、裕福な家庭の下で生まれたウーソオ。まず経営者として表舞台に登場しました。実家の援助を受けながら、ビルマ字新聞「トゥーリヤ」の株式を取得することに成功したのです。

 

 1920年代末には、英国領インドビルマ州の植民地議会議員となり、当時の主流派であったビルマ人団体総評議会に所属します。その際には、彼が編集主幹を務めていた「トゥーリヤ」も活用しながら、徐々に政治的影響力を高めていきました。1938年には独立して、愛国党を結成します。

 

 そして1940年、彼は遂にビルマの首相となったのです。

 

列強国に翻弄されて…… 

 首相になったウーソオは、翌年にロンドンを公式訪問します。1941年と言いますと、第二次世界大戦の真っただ中。特に序盤は、ドイツやイタリアをはじめとする枢軸国の勢いに、英国は大変苦しめられていました。そこでウーソオは、対日協力を約束する代わりに、ドミニオン(英国王を元首とする独立国)への引き上げを要請しようと目論んでいたわけです。

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 しかし計画は失敗チャーチル首相の反応は鈍く、ウーソオは落胆しました。その後は米国、そしてカナダへも向かいましたが、収穫はゼロ。諦めるわけにもいかず、オーストラリアへ向かおうと考えます。給油のためにハワイへ到着したのが、1941年の12月7日。その日、ウーソオは日本軍の真珠湾攻撃を目撃しました。

 

首相の解任

 日本軍の威力を目の当たりにしたウーソオは、これまでの計画をガラリと転換。日本軍への協力を打診するため、中立国ポルトガル日本大使館へ向かいました。

 

 訪問を終え、ようやく本国へ帰ろうかというウーソオ。しかしそこで、予期せぬ事態が発生します。日本大使館が東京の外務省へと発信した暗号電報が全て、米国海軍に傍受されていたのです。

 

 帰国途上のウーソオを、英国はパレスチナで拘束します。しかしながら、裁判をするには証拠の提出が必要です。開戦直後の日本に、米国海軍の暗号傍受能力を知られてしまうわけにもいかないので、ウーソオは(英国ではなく)ウガンダに抑留されました

 

終戦後、政界は一変

 1946年1月29日。4年4か月ぶりに、ウーソオはビルマへと帰国しました。そこでウーソオは仰天します。政界があまりにも変わりすぎていたのです。若きニューリーダー、アウンサン将軍によって、政治的には既に過去の人物となっていたウーソオ。なんとかまた、かつてのように国内政治の中心へと舞い戻りたい。そこで彼の取った行動は、あまりにも無謀なものでした。

 

 ウーソオは、反アウンサンの思いを持つ英国軍人から、密かに武器を購入します。その武器を部下へ手渡し、アウンサン将軍ら、当時のミャンマー政界における重要人物が集まる、行政参事会を襲撃させたのです。

 

 ウーソオはすぐに逮捕され、死刑を宣告されます。英国人や国内の政治家が入れ知恵したという説もありますが、真相は未だ闇の中です……。